建設的な批判と開発者の心情
Matz の一連のツイートをまとめた記事について。
Rubyのまつもと氏、「気分を害することもある。だからどうか建設的であってほしい」
凄く雑にまとめると「オープンソースソフトウェアに関する批判に関しては、建設的な意見交換が可能な形で行ってほしい」という話だ。そのツイートの背景には、Python 発案者の Guido van Rossum が、意思決定への軽蔑的な批判に疲れたことによって起こった引退発表がある。
Matz はそういった心無い批判をする人々に対して
We don't want you to shut up. We are listening. But we are mere mortals. We sometimes feel sick. Please be constructive.
と呼びかけている。批判は聞くけど開発者も気分を害することはあるので、建設的であってほしいと。理想の世界である。
感想と批判
ただ、開発者と利用者の間には、そのプロダクトに対する大きなモチベーションの差があるので建設的な意見交換はとても難しい現実がある。利用者からすれば、別にそのプロダクトが改善されなくても使わなければ良いだけの話なので「xx はクソ」といった一言の感想を無慈悲にツイートしてしまうわけだ。業務や生活上、必ず使わなければならない代替の効かないツールであれば、要望を開発者側に送るなり、OSSなら pull request や issue を立てるなりと、建設的な形に持っていくことは想像しやすいが、多くの利用者は不満があれば捨てれば良い立場にいる。そういった立場の人に「使わないなら黙ってろ」とか「使わない理由を教えろ」とか言う訳にはいかないし、当人にとっては批判ではなく、ただの感想なので別に開発者に受け取ってほしくもないし、そもそも深く考えていなかったりする訳だ。
技術的著作物の批判の気持ち良さ
そして、建設的でなく心無い批判が起こる背景として、単純に技術的著作物の批判は気持ち良いという問題があると思う。廃れ始めの技術に対していち早く批判を始めることは、技術的嗅覚のアピールになるからだ。本当にいち早く離れ始める人々は、廃れ始めである理由や、代替技術との差や有用性について語るのである程度建設的な批判となるのだが、後続の人々の中に「実はよく分かっていないけど、偉い人が離れだしたからオワコンって言っとこう」といった批判の仕方をする人が多く存在する。まだ全然流行っている技術をオワコンと呼ぶのはポジショントークとして割と便利なのは間違いなくて、こういった人々は残念ながら減らないだろうな、と思っている。
どんなプロダクトにも関係者が存在する
話は引用記事に戻るが、この Matz の呼びかけから私が改めて考えたのは、どんなプロダクトにも関係者が存在することを忘れてはならない、ということだ。言葉をインターネットに放流する以上、その関係者に届く可能性も充分にありえる。ただの感想やポジショントークが、特定の誰かを酷く傷付けることもある訳だ。そのこと自体が間違っているとは思わない。プロダクトが流行れば多種多様な言及のされ方をされることは当然であるし、「xx はクソ」といった感想も、実際にその人にとってはクソなのだから仕方がない。
ただ、私は私のあり方として、プロダクトの批判を行う時は、万が一開発関係者の目に止まっても恥ずかしくない言動を心がけようと思った(勿論、プロダクト自体が悪徳なものについては例外だ)。過去の私の言動を思い返すと Microsoft office Excel や Gem の devise や activeadmin 等といった自分の好みでないプロダクトに対して開発者に聞かれたくないような批判の仕方をしていたと思うので深く反省している。
批判を行う場合でも、何故そのプロダクトを使いたくないのか理由を添えたり、こうあるべきだと俺は思うんだけどなーといった着地のさせ方をしたりするだけでも、感情的でヒューリスティックなアプローチではあるが、開発者の目に止まった時の多少のストレスの軽減になるのではないか。そんな気遣い一つで、開発者がモチベーションを失う要因がほんの少しでも減る可能性があるならば、発言に気を付ける価値はある。何より自分も開発者という立場でパブリックなプロダクトを手掛けることもあるので、「自分がされて嫌なことはしない」の精神で建設的な批判の仕方について意識することにする。